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歌舞伎界の"夫婦道"は続く

北辻利寿

2017年9月21日


画像:足成

秋の彼岸を迎えた。
ようやく秋の気配が感じられるようになった先日、今年6月に亡くなった元キャスター小林真央さんの納骨がしめやかに行われたとの報が届いた。
今年の夏から秋にかけての悲しいニュースのひとつに、乳がんと闘ってきた麻央さんの死がある。
歌舞伎役者・市川海老蔵さんの妻でもある麻央さんの悲報は、芸能ニュースに留まらず、大きく報じられた。
 
その背景には、夫・海老蔵さんによる「がんの公表」と麻央さん本人による「闘病ブログ」の存在があったと思う。
去年6月、海老蔵さんは記者会見をして、妻が乳がんと診断されたことを発表、「比較的深刻」と医師から言われていると話した。
これを受けて3か月後に麻央さんはブログを始め、がんと闘う自らの日々を公開していった。
その中では症状が「ステージ4」と言われる重大な局面であることも明かし、その前向きな生き方に対し、イギリスのBBC放送は去年の「100人の女性」のひとりに麻央さんを選んだほど、大きな社会的反響を呼んだ。
ブログを読む多くの人たちにとっては、一緒になって麻央さんと闘っている思いだったように思う。
それだけに、6月23日に海老蔵さんが「人生で一番泣いた日です」と自らのブログを更新した時、何が起きたかを察知した人たちは多かった。

妻の死を受けて、海老蔵さんは記者会見に臨んだ。
その会見をテレビで見ながら、ちょうど1年前に、妻のがんを公表した時の記者会見を思い出した。
あの時も、すっかり大人になった歌舞伎役者・市川海老蔵がいた。
38歳の男性をつかまえて「大人になった」とは失礼な言い方ではあるが、決して大人とは言えない時期があったからだ。
二人が結婚した7年前に2010年、海老蔵さんは東京都内で飲酒がらみのトラブルに巻き込まれケガをする。
歌舞伎の舞台も休むほどの事態だった。
多くの歌舞伎ファンもそうでない人たちも、その所作にがっかりしたはずだ。
2年後には中村勘三郎さん、翌年には海老蔵さんの父・市川団十郎さん、さらに坂東三津五郎さんと歌舞伎界から多くの星が消えていった。

次世代を背負う海老蔵さんには厳しい目も向けられたが、それを支えたのが麻央さんだった。
「気丈にも」という言葉が当てはまるほど、梨園の夫をかばい、時に夫の代わりに詫びた。そんな妻によって、夫も変わったのだと思ったのが、麻央さんの病を公表した記者会見だった。
悲しみを抑えながら、それでも丁寧に記者の質問に答えていく姿には胸を打たれた。
心から奇跡を願った。

そして1年後のさらなる悲しみの記者会見。
昼夜にある舞台の合い間で行われた記者会見で、夫は涙を流したら逝った妻のことを語った。
会見で語られたことは、実に詳細かつ本音の部分が多かった。
「ずっとしゃべれずにいたのに息を引き取る瞬間、彼女が『愛してる』とひと言を言って」という言葉、しかしそれ以上に印象に残ったのは「どんな奥さんだったか」という質問への答だった・・・「僕を変えた奥さんなんじゃないか」。
このひと言に、夫婦が歩んできた7年間が凝縮されていたように思えた。

亡き妻の存在について尋ねられた夫はこう答えた・・・
「私のどんな部分もどこまでも愛してくれていた。彼女には私が役者として成長していく過程をずっと見守っていってもらいたかった存在です」
そこにはすっかり大人に成長した「市川海老蔵」という男性、そして歌舞伎役者の姿があった。

秋が深まりゆく中、これからも海老蔵さんの歌舞伎舞台は休みなく続く。
夫のさらなる成長を麻央さんは天国から見ることになるのだろう。
でも、夫婦でがんと闘った日々は、間違いなくひとりの素晴らしい歌舞伎役者を誕生させた。
それがこの夫婦の姿でもある。麻央さん、どうかゆっくりお休み下さい。                

【東西南北論説風(10)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

国内最大の旅の見本市『ツーリズムEXPOジャパン』とは?

後藤克幸

2017年9月21日

●「ツーリズムEXPOジャパン」とは?

東京で、『ツーリズムEXPOジャパン』という見本市が開かれます。
・国内最大の「旅の見本市」
・日本はもちろん、世界100カ国以上の国から、旅行業者や観光地の関係者・・・毎年18万人以上が訪れる大きな見本市!
・会場では、たくさんのブースが設けられ、セミナーや商談会なども行なわれ
観光ビジネスの情報交流の場となります。

●今年の注目は・・・

2020年の東京五輪・パラリンピックに向けた観光戦略に世界の関心が高まっています。
そこで今回は、東京五輪をテーマにした「特別フォーラム」が開かれ、新たな観光ビジネスの可能性を議論することになっています。

●さらに、「観光滞在プラン総選挙」!?が今年は話題の1つなんです。

これ、どういうことかといいますと・・・
国土交通省が現在、全国13カ所の「観光圏」を認定して新たな観光需要を掘り起こそうというキャンペーンを行なっています。

この地方では、静岡県の「浜名湖」が認定されています。
この『観光プラン総選挙』では、各地が知恵を絞った「観光滞在プラン」を提案し、国民投票で TOPスリー を選ぶというもので、今回の『ツーリズムEXPO』の会場で、投票の方法など総選挙の詳しい内容が発表されます。
さらに・・・認定されている13地域の代表が一堂に会して、総選挙の第一声となる、それぞれのプランのPR合戦を、熱く繰り広げる予定です。

●今週 開かれる「ツーリズムEXPOジャパン」

日本の経済成長戦略にもなっています。
日本の観光ビジネス・・・その魅力を世界にどこまでアピールできるのか?
熱い視線が集まる「見本市」となりそうです!

プロ野球・・・その言葉に喝!

北辻利寿

2017年9月13日

画像:足成

プロ野球のペナントレースも大詰めを迎えている。

阪神タイガースがペナントレースの順位を上げてきた時に「虎の足音が大きくなってきました」という表現を使うのは間違っている・・・これは、放送界の先輩である小塚博さん(元静岡放送)が著書『きょうから直したい言葉遣い』(文芸社)で指摘されていることだ。
なぜ間違っているのか?
虎や猫は肉球動物で足音を立てないからである。
でも、ふと使ってしまいそうな表現でもある。

最近気になるのは、プロ野球を伝えるスポーツ報道の世界での言葉遣いである。
まず「エース」という称号。
はっきり言って安売りのオンパレード。
ちょっと先発ローテーションに入って活躍しただけで、(自戒をこめて言うが)スポーツニュースもスポーツ紙も「エース」という言葉を使いたがる。
「エース」とは、チーム最高の先発投手であり、投手陣の柱。
そして何より、ここぞというゲームで必ず登板し勝つ、またはゲームを作る投手だと思う。

愛情があるからこそ、あえて中日ドラゴンズを例にとる。
背番号22の大野雄大投手。
ドラゴンズの選手会長でもあり、チームの顔のひとりなのだが、今シーズンは「大野エース復活か」という言葉をよく耳にした。
あえて言わせていただくならば、私はファンとして、大野がエースだったことはかつて一度もないと思っている。
現時点まだ左腕先発投手のひとりという解釈である。
なぜか?
大野投手は2011年(平成23年)にデビューして以来、実働は今季で7年目。
昨季まで6年間の通算成績は42勝42敗の五分。
2013年から3年連続で二ケタ勝利をあげているが、プロ野球のペナントレースが勝率を争う中で、勝ち星の貯金ゼロでエースなのだろうか?
今季も現時点で勝ち星の貯金はない。

かつてドラゴンズを率いた落合博満元監督は「5年連続で二ケタ勝ったら認めてやる」と語り、それに応えた吉見一起投手は、2008年から5年連続の二ケタ勝利をあげた。
その吉見投手の昨季までの通算成績は80勝39敗。
立派なものである。
落合さんと同じくドラゴンズの監督だった星野仙一さんが先日語っていたが「貯金してこそエース」。
大野投手には一大奮起していただき、本当の意味での「エース」という称号を手にしてほしい。
吉見投手は2軍調整中のため、今のドラゴンズのマウンドに「エース」は不在である。

もうひとつ気になるのが「守護神」という言葉。
抑え投手、最近で言うクローザーのことを言うのだが、「エース」以上に大安売りである。「守護神」という言葉からは、江夏豊、佐々木主浩、高津臣吾、そして我らがドラゴンズからは岩瀬仁紀・・・こうした顔ぶれが浮かぶが、今季もスポーツ紙を読んでいると、「守護神」という言葉のオンパレードである。
ひょっとしたら、抑えに出てくる投手すべてが「守護神」と呼ばれることになったのだろうか。
これも愛があるから厳しく言わせていただくならば、ドラゴンズの抑えをつとめている田島慎二投手。
まだ「守護神」とは呼びたくない。
今季も特にジャイアンツ相手に痛い逆転負けを何回くらったことか。
「神」ならば、ほぼ毎回抑えてもらわなければならない。

エースに守護神。
いずれも投手の称号だが、それに比べると打者の称号はないように思う。
「スラッガー」という言葉は称号とまでは言いがたい。
これもかつての落合語録なのだが、「野球のゲームで最初に攻撃できるのは、ボールを投げる投手」。
攻撃というとどうしても打つ方に目がいくが、その誤解を指摘した名文句だった。
その考えからすると、やはり野球は、投手が主役のスポーツなのかもしれない。

さて、冒頭の小塚さんは著書の中で正しい例として「虎が忍び寄ってきました」という表現をあげているが、熱烈なタイガースファンの心情としては、「忍び寄るなんてとんでもない。熱い応援によって一気に首位を狙ってやる!」くらいの勢いであろう。
5年連続の低迷を続けるドラゴンズファンとしては何ともうらやましい。

【東西南北論説風(9)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

いつかは誰もが高齢ドライバー

北辻利寿

2017年9月 9日

画像:足成

倉本聰さんが脚本を書いた連続ドラマ『やすらぎの郷』にこんな場面があった。

老人向け施設で暮らす石坂浩二さん演じる主人公・菊村栄らが、運転免許更新に出かける。そこで「認知機能検査」などを受ける。

菊村は合格したのだが、佐々木すみ江さん扮する岡林谷江は実車運転も含めた検査に通らず、免許を取り消されてしまう・・・。

 

高齢社会が進み、運転免許を持つ高齢者の数も増えている。

警察庁では事故の数を少しでも減らそうと、70歳以上の運転免許手続きに特別な講習義務を課した。

講義・視力などの検査そして実車運転からなる「高齢者講習」。

教習所のコースで実車運転をする「チャレンジ講習」など、簡単には免許更新ができないルールだ。

 

さらに今年3月から75歳以上に義務付けられたのが「認知機能検査」である。

これは、①時間の見当識(検査当日の年月日や時間を回答)、②手がかり再生(16種類のイラストを記憶して回答)、③時計描画(時計の文字盤を描き、指定された時刻の針を描く)・・・この3種類から成り、ドラマではこの内、②「手がかり再生」の場面が紹介されていた。

16種類の絵は、AからDまで4パターンの組み合わせがある。

例えば、Aパターンでは、「大砲」「オルガン」「耳」「トランジスタラジオ」「てんとうむし」「ライオン」「筍」「フライパン」「ものさし定規」「バイク」「ぶどう」「スカート」「ニワトリ」「薔薇」「ペンチ」「ベッド」この16の絵を記憶して、しばらく他の検査をした後に、覚えている分だけすべて答えるというもの。

ホームページなどでも公開されているので、私も試してみたが、なかなかの難問でもあった。

それだけ、ハンドルを持つ年齢のハードルは高くなっているということだろう。

さらに道路交通法では、75歳以上の高齢ドライバーが「信号無視」「通行禁止違反」「進路変更禁止違反」など18種類のどれかの違反をした場合、臨時の「認知機能検査」も新たに義務付けた。

 

交通死亡事故の数が14年連続で全国ワースト1の愛知県で、今月3日、相次いで2件、高齢者が関わった交通死亡事故があった。

この内、北名古屋市の事故は、79歳男性が運転する乗用車がバイクに追突してバイクの男性が死亡した。

また、豊明市の事故は88歳男性の運転する乗用車がこれも高齢者である86歳が乗った自転車と出会い頭に衝突して自転車の男性が死亡した。

 

愛知県の去年1年間の交通死者の数は212人だが、65歳以上の高齢者は117人と実に半数を超えている。

117人の内で四輪車での死者は30人。

65歳から74歳が14人、しかし75歳以上はそれを上回る16人だった。

 

こうしたルールでの事故防止の動きと共に、運転免許を自主的に返納することを促す動

きも加速している。

「高齢者運転免許自主返納サポーター」登録をしている店などで、「運転経歴証明書」を提示すると、薬や飲食の割引サービスも受けられる、スーパー銭湯の入場料も割引対象である。

もっとも、葬儀関連費用の割引については、「ここまでやるか」との思いは否めないが・・・。一方で、高齢者が暮らすのは公共交通機関が充実している都会ばかりではない。

その意味ではまだまだ新たな一歩が始まったばかりと言えそうだ。

 

冒頭のドラマで、免許証を取り上げられて怒った老女は、施設を訪れた客の外車を無断

で借りて、高速道路を猛スピードで逆走する大騒ぎを起こす。

事故が起きなかったのはドラマの世界だから。

「年寄り笑うな行く道じゃ」という言葉もあるように、老いは誰でも歩む道。

でも誰かを傷つけないよう"ブレーキ"だけは意識して歩みたい。

 

東西南論説風(8)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

次の五輪開催地、同時決定のワケ

北辻利寿

2017年9月 8日

【CBCテレビ イッポウ金曜論説室】

 

●アルゼンチンのブエノスアイレスからの熱狂、今も鮮明に覚えている方は多いのではないでしょうか?

今から4年前の2013年(平成25年)9月7日、IOC総会でロゲ会長が手にしたカードを裏返すと、そこには「TOKYO」の文字がありました。

決戦投票でトルコのイスタンブールを破り、2020年の五輪開催地として東京が決まった瞬間です。

 

●決定を現場で取材していたJNNロサンゼルス支局の大嶽昌哉元支局長は、この時の日本代表団の喜びについて次のように振り返ります・・・

「下馬評を覆しての大逆転勝利。『おもてなし』の言葉に代表された日本のプレゼンが、初めて国際社会で通用した手応えに沸いた」

 

●東京の次の五輪開催地を決めるIOC総会が、9月13日からペルーのリマで開催されます。

しかし、おそらく4年前の興奮はここにはないでしょう。

なぜなら2024年の開催地はすでにフランスのパリに内定しているからです。

それどころか、次の次、2028年の開催地もアメリカのロサンザルスに内定しました。

今回の総会は、東京五輪に続く2回の開催地を同時に決めてしまうという、きわめて異例の総会になります。

●五輪憲章には「7年前に開催されるIOC総会において投票により開催都市を決定する」とあります。

当初、2024年の開催地には、パリとロサンゼルスの他、イタリアのローマ、ドイツのハンブルク、そしてハンガリーのブダペストが立候補を予定していました。

しかし、パリとロサンゼルス以外の3都市は相次いで立候補を取り止め、残ったのがこの2つの都市でした。

●立候補取り止めの背景には、開催地に強いられる巨額の財政負担があります。

東京五輪では種目数が339と過去最多になり、こうした肥大化する競技数なども開催費用に負担をかけます。

またアテネやリオデジャネイロなど最近の開催地では、会場跡地の利用が必ずしもうまくいっていないなど、五輪という存在が今や決して「おいしい」ばかりではないという現実がそこにあるのです。

 こうした招致熱が冷えつつある事態に、せっかく手を上げてくれたパリとロサンゼルス、

この2つとも逃したくないと考えたのが、IOCでした。

ましてこの2都市は、それぞれ過去に五輪を2回開催している"ベテラン"。

こうした思惑から過去1世紀以上なかった異例の同時選定というシナリオが描かれたのでした。

●2024年の開催をパリに譲り4年後にまわることになったロサンゼルスには、準備期間が長きに渡ることから、18億ドル(約2000億円)の財政支援が行われることになりました。

 現JNNロサンゼルス支局の松本年弘支局長は、ロスの空気についてこう話します・・・

「メディアも市民も平静。11年先の開催である今ひとつピンと来ていないことに加え、

  3回目の開催となるため、ある意味五輪に慣れてしまっている。IOCから

  財政支援を引き出したのは見事な戦略だった」

●東京五輪・パラリンピックまで3年を切りました。

次の開催地選考で浮かび上がった課題の数々・・・「巨額の開催費用」「種目数の肥大化」「会場跡地の活用方法」。

これらは同時に東京そして日本にとっての課題でもあることを忘れてはいけません。

【イッポウ「金曜論説室」より  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

五輪・パラリンピックの"図柄入り"特別ナンバープレート、申し込み開始!

石塚元章

2017年9月 6日

◆「多様性の未来」をイメージしたナンバー、寄付金を払ってあなたの車にも...?
2020年東京五輪・パラリンピックを記念するナンバープレートの申し込みが9月4日から始まりました。自動車の前後に付いているあの"ナンバー"ですね。

大会のエンブレムが入ったナンバープレートが7千円から8千円程度の交付料金(普通乗用車の場合。地域によって金額が異なる)を支払うことで入手できます。五輪とパラリンピックのエンブレムが右肩に小さく入った2枚がセットです。
今のプレートを返納したうえ、同じナンバーのプレートを引き換えに受け取って取り付ける段取りです。

今回、このエンブレム付きのナンバープレートだけでなく、全面に図柄が入った特別プレートも用意されています。こちらは、交付料金に加え「千円以上の寄付が必要となる」...というのがポイントです。
この寄付金、高齢者や障がい者が利用しやすいバスやタクシーなどの整備にあてられる予定です。

特別ナンバープレートの申し込みは、専用のホームページ(http://www.graphic-number.jp) からできますが、ディーラーや整備工場などが窓口になってくれるケースもあるようですから、一度ご確認を。実際にナンバーが受け取れるのは10月以降...ということになっています。

国土交通省は5つに絞った作品案の中から、市民の意見などを聞いた上で
最終デザインを決定。タイトルは「多様性の未来」。様々な個性が輝きながら集約するイメージ。

◆「地方版」の図柄入りナンバープレート計画も

寄付をすることで作ってもらえる「図柄入りナンバープレート」。

実はすでに、第一弾として「ラグビーワールドカップ」特別ナンバーの交付がスタートしています。街で目にした方もいらっしゃるかもしれません。
このほど申し込みがスタートした「東京五輪・パラリンピック」の特別ナンバーは第二弾ということになります。

さらに、この後に予定されているのが「地方版」の特別ナンバープレートです。導入するかどうかは地域ごとの判断となりますが、こちらは交付料金だけだと白黒の図柄。寄付金を納めるとカラーの図柄となります。
「地方版」の寄付金は、それぞれの地元で観光振興や交通網整備などに活用される予定。この「地方版」ナンバーが交付されるのは、2018年10月頃の予定です。

◆世界で活用される図柄入りナンバープレート
図柄入りのナンバープレートで寄付を集めようという発想は、アメリカやカナダでスタートした考え方です。
たとえば、アメリカのニューヨーク州ではナイアガラの滝をあしらった図柄入りナンバープレートを発行。寄付金は州立公園の整備にあてられています。
また、フロリダ州ではスペースシャトルが描かれたンバープレートで寄付金を募り、宇宙関連技術の振興や宇宙をテーマにした観光開発に活用しています。

1951年(昭和26年)に自動車の登録制度がスタートした日本。正式名称が「自動車登録番号標」であるように、そもそもは登録・分類・識別などが目的だったナンバープレートですが、今、新たな役割が求められているようです。

「防災の日」思いをはせる・・・大災害の教訓

後藤克幸

2017年8月31日

9月1日は「防災の日」。なぜこの日なのでしょうか?

死者・行方不明者10万人以上という未曽有の大災害だった「関東大震災」が起きたのが、
1923年(大正12年)9月1日のことでした。
「防災の日」が定められた理由に、もうひとつの歴史があるのをご存じでしょうか?
1959年(昭和34年)の9月に名古屋地方を襲い、死者・行方不明者5000人以上という
大きな被害をもたらした「伊勢湾台風」です。9月は一年で最も台風上陸数が多い季節ということもあり、「伊勢湾台風」の翌年、1960年(昭和35年)に、国民全体で「防災」を考える機会にしようと「防災の日」が定められました。

●その後もさまざまな大災害が日本を襲いました

大災害が、私たちの社会に残した教訓を振り返ってみましょう。
「阪神淡路大震災」(1995年1月17日)では、犠牲者の8割が建物倒壊などによる圧死でした。この教訓から、建物の耐震性を強化するための「建築基準法の抜本的改正」(1998年)につながりました。
「東日本大震災」(2011年3月11日)では、大津波の被害に加え、過酷な原発事故が発生。津波対策の強化や高台への街の移転などが進められる一方で、原発事故の処理と復興は困難を極めています。遠くヨーロッパでは、ドイツが「脱原発」へ国の政策を大きくシフトするなど、海外の原発政策にも大きな影響を与えました。

●教訓を未来へつなぐ・・・

大災害の辛い経験の中から、私たちは多くの教訓を学び、未来へつなぐ使命があります。
その基本は、こんな言葉で表されます。
『過去の被害は消せないけれど、未来の被害は、減らすことができる』

この言葉を胸に刻んで、今の暮らし、社会のありかた、そして未来を考えるのです。
来るべき「南海トラフ巨大地震」にどう備えるのか?国や行政の取り組みについて、さまざまな議論が続いています。
一方、私たち自身も、それぞれの地域で、家庭で、「未来の被害を減らすために」何ができるか?何をすべきか?・・・9月1日「防災の日」を機会に、じっくり考えてみたいですね。

与那国島へ思いをはせて

北辻利寿

2017年8月29日

与那国という島のことを知ったのは、ノンフィクションライター・沢木耕太郎さんの

「視えない共和国」と題した文章だった。

読んだのはもう30年以上前のことだ。

島の人々とのふれあいなど100ページほどのエッセイの中、最も強烈に覚えているのは、天候など条件が良ければ台湾を見ることができるという記述だった・・・

 

"ひと目でいいから見てみたい。それはぼくが初めてこの眼で見る外国になるはずだった"
※沢木耕太郎(1977)『視えない共和国(『人の砂漠』収録)』(新潮社)

 

そう、日本にいながら"外国"を見ることができる島、それが与那国島なのである。

 

沖縄県にある与那国島だが、本島の那覇市とは500キロ以上離れている。

逆に台湾とは約110キロと近い距離にある。

日本の最西端に位置している島。

北朝鮮のミサイル計画によって緊張が走った今年の夏、数年前に訪れた与那国島のことを度々思い出した・・・。

 

石垣島の空港を飛び立った飛行機は、あっという間に着陸体制に入った。

そして与那国島の東部から海岸沿いの滑走路に滑り込む。

この空港には管制塔がない。

着陸の技は機長の腕次第と島の人は笑った。

晴れていても風が強いと降りることができない場合もあるそうだ。

島内は一周27キロ。

大きな風力発電機がある東崎(あがりざき)。風光明媚な迫力満点の立神岩(たちがみいわ)。大好きだったドラマ『Dr.コトー診療所』のオープンセットにも感激した。

病室からの海の眺めが心を癒す。

たくさんの与那国馬が自由に闊歩している東牧場線、そしてその向こうに広がる太平洋。中でも「日本最西端の碑」がある西崎(いりざき)は素晴らしかった。

たくさんのトンボが飛ぶ中で、東シナ海の美しさに思わず目を細めた。

しかし、雲ひとつない好天にもかかわらず、この日は台湾の島影を見ることはできなかった。

 

この与那国島に、自衛隊が駐屯してから2年目を迎えた。

私が島を訪れた数年前には、「歓迎!自衛隊」という看板と「自衛隊は来るな!」という看板が島内に混在していた。

この自衛隊の駐屯計画は、2009年(平成21年)に町が防衛大臣に対し「与那国島への陸上自衛隊部隊配置に関する要望」を提出するところからスタートした。

島にある二種類の看板のように意見を二分しながら、2015年(平成27年)2月の住民投票で賛成派が勝利し、去年3月28日、島の南東部に陸上自衛隊「西部方面情報隊与那国沿岸監視隊・第442会計隊」駐屯地が開設されたのだった。

 

与那国町は大きな問題を抱えていた。

人口減少である。

太平洋戦争後の1947年(昭和22年)には1万2000人いた島民人口も、その後減り続け、2011年(平成23年)には1680人。町の試算では2020年を過ぎると1500人を割り込むと推定されていた。

町はこの時に策定した「第4次総合計画」で5つの新規雇用策(観光・伝統的ものづくり・畜産・農業・水産業)を掲げて、この時点で1800人への回復をめざした。

そんな中で実現した自衛隊の駐屯。自衛隊員とその家族が移り住み、島内人口は今年5月に1726人と増加した。

 

島の人口減少対策の背中合わせにあるのは防衛問題である。

いわゆる「南西シフト」を考える防衛省は、与那国島に続き、石垣島そして宮古島にも、陸上自衛隊の実戦部隊配置を念頭に置く。

北朝鮮問題の緊張が続く中、先島諸島を舞台にしての防衛問題は、島の人口減少問題とリンクしながら、大きなうねりとなっているように思う。

そして、そのいずれの島も、今なお本島の基地問題に出口が見えない沖縄県、その島々なのである。

 

「台湾が見えますよ!」。

ホテルスタッフの声に驚いたのは、滞在3日目の夕暮れだった。

急いで西の海に目を凝らす。

その姿は想像をはるかに越えるものだった。

それは「島影」なんてものではなく、「山影」そして「大陸」のような姿だった。

その大きさに圧倒されながら、与那国島が"国境の島"なのだとあらためて思ったことを、今も鮮明に覚えている。

 

戦後72年。北朝鮮をめぐる世界の緊張の中、島はどんな夏を送ったのだろうか。

 

東西南論説風(7)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

【引用】

※ 沢木耕太郎(1977)『視えない共和国(『人の砂漠』収録)』(新潮社)

ドラゴンズ背番号に物申す

北辻利寿

2017年8月22日

画像:足成

横浜スタジアムを吹き抜ける夏風は、一瞬にして日中の暑さを忘れさせるものだった。

屋外球場でナイターを観戦するのは一体いつ以来のことだろうか?
1996年(平成8年)10月、翌年からナゴヤドームに本拠地を移す中日ドラゴンズのシーズン最終戦を観たナゴヤ球場以来、実に21年ぶりか・・・。
幼き頃から中日スタヂアムそしてナゴヤ球場といった"屋根のない球場"に通った自分にとっては実に懐かしい夏風である。

ハマスタ特製のクラフトビールの美味しさに驚き、場内カメラが観客を映し出しアナウンスで"いじる"演出に笑い、横浜DeNAベイスターズのオフィシャルサポーティングガールズ「diana(ディアーナ)」に合わせてスタンドで踊る子供ファンに圧倒され、そしてスターティングメンバー発表。
先攻であるドラゴンズの先発メンバーを見ながら思った。
背番号の数字が重い・・・。
 
今シーズンに入って、ベンチ登録メンバーを見ると、内野手が荒木雅博選手の「2」の次がいきなりA・ゲレーロ選手の「42」となっていて驚いたことがあったが、横浜スタジアムで「京田、谷、大島、ゲレーロ・・・」と読み上げられる選手の背番号の大きな数字をあらためて実感した。

この試合のスターティングメンバー8人(投手除く)の背番号の合計数は「334」だった。
最も小さな数字が藤井淳志選手の「4」、最も大きな数字が谷哲也選手の「70」。
ドラゴンズの中心選手の背番号について、選手の名前が入った応援歌『燃えよドラゴンズ!』から振り返ってみたい。

20年ぶりにセ・リーグ優勝をした1974年(昭和49年)、最初の『燃えよドラゴンズ!』で歌われた、1番の高木守道選手から始まり、谷木→井上→マーチン→谷沢→木俣→島谷→広瀬と続いた"伝説の"スタメン8選手、その背番号の合計は「67」である。

"野武士野球"を旗印にセ・リーグ優勝した近藤貞雄監督の1982年(昭和57年)は、最終戦まで首位打者を争った1番の田尾安志選手から始まり、平野→モッカ→谷沢→大島→宇野→中尾→田野倉、これで背番号合計「133」。
この時に背番号「57」だった平野謙選手は翌年から背番号「3」に変わるので、そうなると一気にマイナス54で「79」。

落合博満監督の下で、球団初の連覇をめざした2005年(平成17年)は、2000安打を今年達成した1番荒木雅博選手から始まり、井端→立浪→ウッズ→福留→アレックス→森野(井上)→谷繁という8選手で背番号合計「95(96)」。
こう振り返ってみると、いかに今季、一軍のゲームで出場している選手の背番号が大きい数字かが分かる。
誤解してはいけないのは、背番号の大小で選手の活躍が決まるのではないということ。代表的な例はイチロー選手で、「51」という数字を背負い続けている。
この夜の相手、ベイスターズだって田中浩康選手「67」、首位打者争い中の宮崎敏郎選手「51」と大きな番号を背負っている。当のドラゴンズでも野手で今年最も目立っているルーキー京田陽太選手が「51」なのだ。
それでも、やはり野球の場合、グランドには9人、「ナイン」と呼ぶのだから、背番号は若い数字に注目してしまう。

ドラゴンズの背番号の系譜を見るにつけて、ここ数年は、期待されて若い数字の背番号をもらった選手、またはドラゴンズ栄光の名選手背番号をもらった選手が活躍できていない。長年ドラゴンズを愛し続けているファンの立場としての思いであるが、ファンは好きな選手の背番号の入ったユニホームやタオルを買って球場で応援したい。
その数字は分かりやすいものがいいし、伝統の名背番号がいいし、もちろん必ずゲームに出場してほしい。
せっかくその背番号グッズを買った選手が、時々しか出場しない、ましてや一軍ベンチにいない。こんな状態ではファンはやりきれない。
今年のシーズンオフには既存番号のシャッフル含めて、ドラゴンズには大胆な背番号の再編成に期待したい。
 
ハマスタ観戦でもうひとつ印象に残ったことがある。山崎康晃投手含めてリリーフ投手が打者に投げる直前に、球場全体に自然に巻き起こる拍手。
それは応援団にリードされるのではなく自然にハマの夜空に響き、ベイスターズ選手を温かく包み込んでいた。

シーズンも残りわずか、依然として竜の苦しい戦いが続く。
ファンとしてアウェイの球場に身を置きながら、3塁側ベンチに熱い思いを送る・・・ドラゴンズ頑張れ!

【東西南論説風(6)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

中日vs巨人・戦いの歴史ひとかけら

北辻利寿

2017年8月18日

画像:足成

プロ野球の2017年シーズンも大詰めを迎えています。
ナゴヤドームでは、夏休み後半に中日ドラゴンズと讀賣ジャイアンツの2連戦がありますが、伝統あるこの両チームは、1936年(昭和11年)からこれまでに1907試合戦っています。
ドラゴンズ側からの通算対戦成績を見てみますと、ドラゴンズの827勝1025敗55分。
昨シーズン、最下位だったドラゴンズですが、ジャイアンツには13勝11敗1分と勝ち越すなど、このところ頑張っている印象が強いのですが、通算対戦成績では200勝近い差をつけられています。
やはりジャイアンツは強いですね。
様々なドラマを歴史に刻んできた両チームの対戦ですが、何と言ってもまず思い浮かぶのは、シーズン最終戦に同率で並び、勝った方が優勝という1994年(平成6年)10月8日いわゆる「10.8」決戦です。
地元ナゴヤ球場で戦ったドラゴンズ、6対3で長嶋茂雄監督率いるジャイアンツに破れましたが、肩を脱臼しても一塁にヘッドスライディングした立浪和義選手の鬼気迫るプレイなど、数々の記憶を残しました。
毎年8月になると思い出すのが、近藤真一(現・真市)投手がプロ入り初登板初先発で、ジャイアンツ相手に見事ノーヒットノーランを達成した1987年(昭和62年)8月9日のゲームです。
高卒ルーキーをいきなりジャイアンツ戦に先発させるという星野仙一監督の大胆な選手起用が、ドラゴンズの歴史に素晴らしい1ページを残しました。
近藤さんは現在ドラゴンズの1軍投手コーチ。若くて粋のいい、そしてファンを夢中にさせるような投手をどんどん育ててほしいですね。

もうひとつ8月の記憶としては、66年前の1951年(昭和26年)8月19日。
中日スタヂアム(現ナゴヤ球場)のスタンドで火災が起き、3人が死亡、300人以上がケガをするという大惨事になりました。
これもジャイアンツ戦です。この時のスタンドに当時は小学生だった高木守道さん(後にドラゴンズの名二塁手さらに監督)が観客としていたというエピソードは有名です。
記憶から記録に目を向けてみましょう。2003年(平成15年)9月16日のジャイアンツ戦の6回裏、ドラゴンズは何と11連続得点をあげました。
1イニングでの11連続得点はセ・リーグ記録です。
この時の監督は途中休養した山田久志監督に代わって采配をふるっていた佐々木恭介監督でした。翌年からは落合博満監督が率いた8年に及ぶ黄金時代、その兆しを感じさせる勢いでジャイアンツに19対2の圧勝でした。
逆に残念な記録もあります。
1ゲームで6個の併殺というのはプロ野球記録ですが、これは、1950年(昭和25年)4月29日にドラゴンズがジャイアンツ戦で喫しました。
野球は普通9イニングですから、6併殺というのはなかなか破られることのない不名誉な記録です。この時は21対6で、もちろんジャイアンツが勝ちました。
このようにプロ野球はじめスポーツは、「記憶」を辿り「記録」を意識して観戦するとさらに楽しみが増すと思います。
そして何といっても大切なことは「現在(いま)」です。
1907試合戦ってきた中日ドラゴンズと讀賣ジャイアンツ、次の試合でどんな新しい「記憶」と「記録」を残してくれるか、楽しみですね。

【イッポウ「金曜論説室」より  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

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