シロ?クロ?その判定に異議あり

北辻利寿

2017年7月21日

 プロ野球のオーナー会議が、オールスターゲームを前に開催された。その席上で、日本野球機構(NPB)に設置されているリプレー検証検討委員会から報告されたのは、米国のMLBが採用している「チャレンジ制度」の日本での導入についてであった。
 日本のプロ野球では現在、2010年から本塁打に限ってリプレー検証が、そして去年2016年から本塁でのクロスプレーについてもリプレー検証が採用されている。今回の「日本版チャレンジ」は、この枠をさらに拡げようというもので、本塁以外でのクロスプレーやそれぞれのチームから検証を求めることができるという内容である。早ければ来シーズンからの導入をめざすという報告であった。MLBの場合は、「チャレンジ」用のスタジオをニューヨークに用意し、全米30球場からの映像を一括して管理。専門の審判員が待機して、球場の審判員と連携をしながら検証を進める大がかりなものだ。さて、日本では一体どこまで、それが可能になるのだろうか?

 そんな話題が出た月の初め、ひとりの野球人が逝った。上田利治さんである。享年80歳。上田さんを有名にしたのは、何といっても、37歳の若さで監督に就任した阪急ブレーブス(当時)を1975年(昭和50年)からパ・リーグ4連覇させたことだろう。この中には3年連続の日本一が含まれている。「プロ野球の判定」と聞いて思い出すのは1978年の日本シリーズ。上田監督にとっては4年連続の日本一がかかった第7戦の猛抗議だろう。相手はヤクルトスワローズ。当時はまだ日本シリーズがデーゲームだった。1点リードされた6回、ヤクルトの主砲・大杉勝男選手が放ったレフトポール際の打球が本塁打になると、上田監督はベンチを飛び出した。ファウルだと主張し、本塁打判定の取り消しを求める上田監督は守備についていた選手をベンチに引き上げさせ、左翼審判の交代をも求めた。抗議時間は実に1時間19分。結局、判定は覆らず、ゲームは4-0でヤクルトが勝利して、阪急は4年連続の日本一を逃した。それほど重い判定だった。もし、リプレー検証が採用されていたらどうだったのだろうか。

 スポーツでの判定というと、もうひとつ思い出すのが大相撲での横綱・北の富士と関脇・貴ノ花(先代)の一番である。上田監督猛抗議の日本シリーズから遡ること6年の1972年(昭和47年)初場所。土俵中央で組んだ二人の力士。北の富士が左からの外掛けに出るが、足腰の強さが並大抵でなかった貴ノ花はそれを残す。すると北の富士は全体重をかけながら今度は右からの外掛けに出る。それを貴ノ花はプロレスのバックドロップよろしく身体を反らせながら投げようとする。北の富士の右手が先に土俵に突き、その後二人は土俵に倒れこんだ。行事軍配は「つき手」で貴ノ花に上がる。しかし物言いがつき、結果は「貴ノ花の体はすでに"死に体"。それをかばった"かばい手"」と軍配が覆り、結果は行事差し違え。北の富士が「浴びせ倒し」で白星を上げたのだった。当時はビデオ判定もなく、こちらも審判員の目だけが決め手だった。

 スポーツの世界から曖昧さが消え去っていく。誤審は許されない。しかし、人が人を判定するからこそ、お互いに切磋琢磨があり、そこに血が通うのではないかと思う。シロか?クロか?スポーツ界はその色をさらに鮮明にする道を歩んでいる。(2017/7/20)

【東西南論説風(1) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

プロフィール

2017年7月20日

北辻利寿(きたつじ としなが)

北辻利寿

論説室長
1959年 名古屋市中川区生まれ
1982年 愛知県立大学外国語学部卒
同年中部日本放送入社、報道局に配属。
各分野の取材を担当
1992年 TBS系列JNN特派員としてウィーン支局に赴任
3年間にわたりヨーロッパ・中東・ロシア
などで取材活動
2012年 報道部長
2014年 報道局長
2017年7月~論説室長

●著書
 『ニュースはドナウに踊る』
 (KTC中央出版 1999年)
 『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』
 (ゆいぽおと 2016年)
●その他 
 中日ドラゴンズ検定1級・2級・3級 合格認定者

石塚元章(いしづか もとあき)

石塚元章

論説室 解説委員
1957年 名古屋市生まれ
1981年 同志社大学法学部卒

〔やってきたこと〕
記者・デスク・キャスターとして/地元の事件・司法・行政・経済・おもしろいこと(?)などなんでも取材・企画・まとめ・発信。
JNNウィーン支局長として/各国を飛び回り、戦争から異国文化までリポート。
BS-TBSキャスターとして/全国ニュース取材。要人インタビュー多々。

〔大切にしたいこと〕
「硬いニュースは柔らかく、柔らかい話題も時に硬く」が入社以来のモットー。
難しいことをわかりやすくし、おもしろいことの背景に迫る。あとは、謙虚さと大胆さと...愛。

横地昭仁(よこち あきひと)

横地昭仁

論説室 解説委員
1960年 名古屋市生まれ
1984年 慶應義塾大学工学部卒

選挙で示される民意とは何か考え続けてきました。加速度的に進化する高度技術の行く末にも関心を持っています。大きな転換点とも言われる今、次の世代のために私達はどんな未来を取捨選択するのでしょうか。出来れば、その一助でありたいと願っています。

後藤克幸(ごとう かつゆき)

後藤克幸

論説室 解説委員
1957年 名古屋市生まれ
1981年 名古屋大学経済学部卒
同年中部日本放送入社。報道局配属。
名古屋市政担当、愛知県政担当など歴任後、
医学・医療分野担当の専門記者として活動。
数多くの医療ドキュメンタリー番組を制作。
医療安全、患者の権利、緩和ケアなど幅広い
医療問題を取材しながら、医療の情報公開と、
患者・家族・市民社会の情報共有が医療改革へ
のパワーになると確信。
2005年 広報部長
2012年7月~ 論説室 解説委員

●座右の銘;
「Let it be」(自然体を肯定。あるがままに、自分らしく生きる。)

The Beatles 来日50周年に想う「Love&Peace」

後藤克幸

2016年6月27日

1966年6月29日。
CBCが招へいしたビートルズが羽田空港に到着。
4人は、はっぴ姿でタラップを降り笑顔でファンに手を振った。

7月2日の帰国まで5日間の短い滞在中、
日本武道館で5回のライブコンサート。

来日記者会見の記録を改めて読んでみて、
興味深いやり取りに気づいた。
(記者)あなたたちは、すでに名誉と財産を得たと思いますが、
        次は何を望みますか?
ジョン;平和。
(記者団が爆笑)
ポール;ぼくも、平和。
ジョン;平和 と・・・
ポール;平和 と・・・
ポール;原子爆弾を禁止しようよ!
ジョン;そう、原子爆弾の禁止!
というくだりが記録されていたのだ。

記者が「名誉と財産を手に入れたあなたたちは、次に何を望むの?」と
質問したのに対して、ジョンが「PEACE!」 と答えたとき、
記者団から大きな笑いが起こった。

質問の趣旨とその場の空気から考えると、
記者たちは、おそらく「PEACE!」という言葉を
「静かな生活(を送りたい)!」という意味に解して、
そのユーモアに思わず爆笑したのだろう。

でも私は、
ジョンとポールは、そういう意味も込めたかけ言葉として「PEACE!」と
ユーモアをこめて答えたけれども、実は、
大真面目に「平和!」と言いたかったのでは、とも思う。

その根拠は、
二人は即座に、「PEACE and・・・」と続けて、
ポールが示し合わせたように「原子爆弾を禁止しよう!」と発言。
さらに、同じ記者会見の中の別の質問では、
こんなやり取りもあるからだ。
(記者)ベトナム戦争について関心はありますか?
ジョン;毎日そのことを考えているよ。
        この戦争には賛同できないし間違っていると思う。

ビートルズの来日は、1966年。
翌1967年に「All You Need Is Love(愛こそはすべて)」を発表。
1968年には、ジョージ・ハリスンも、
彼の出世作でエリック・クラプトンとレコーディングで共演した名曲
「While My Guitar Gently Weeps」で反戦へのメッセージを歌った。

ビートルズは、1966年6月29日の来日記者会見で、すでに、
「Love and Peace」のメッセージを私たちに発信していたのだ!

                                     

 

 

 

 

            

                         

 

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沖縄へ旅行されるなら・・・

後藤克幸

2015年4月 4日

 夏休みに、もし沖縄へ旅行される方がいらっしゃいましたら、ぜひたくさんの方に訪問してほしいと思うのが、『旧海軍司令部壕跡』です。那覇空港から車で15分ほどの所にあります。沖縄戦で、日本海軍が、激しいアメリカ軍の攻撃に抵抗して持久戦を続けるために地下壕を掘って司令部を置いた場所で、今は、地下壕の中に、悲惨な戦争の実情を伝える様々な資料が展示されています。この中でも、特に、心を打つのは、当時の司令官が海軍本部にあてて打った『沖縄県民かく戦えり』という電報文の展示です。
 沖縄県民は、青年も老人も女性もみんな防衛戦に駆り出され、砲爆撃の下でさまよい、看護婦も身寄りのない重傷者を助けて一緒にさまよい歩いています。沖縄の実情は言葉では形容できません。一本の木、一本の草さえすべてが焼き尽くされて食べ物もありません。沖縄県民かく戦えり。県民に対して、なにとぞ後世特別のご配慮を賜りますようにお願いします・・・と書かれていました。
 "沖縄に後世特別のご配慮を"・・・。司令官のこの悲痛な叫びは今、どこに・・・?

「リアルな映像」考〜キノコ雲の下から考えるということ

横地昭仁

2015年3月24日

 「キノコ雲の下」という言葉に強いインパクトをうけました。3月23日に日本記者クラブで開かれたパグウオッシュ会議と核廃絶がテーマの記者会見で出た言葉です。

 パグウオッシュ会議は、冷戦時代の1957年、核兵器の開発に携わった東西の科学者らがカナダのパグウオッシュに集まって、核廃絶と科学者自身の責任について話し合ったのがはじまりで、それから折に触れて世界大会を各地で開き、核廃絶に向けた提言をしています。ノーベル物理学賞を受賞した科学者らも参加し、日本も批准しているNPT=核兵器不拡散条約にも影響を与えたとされ、パグウオッシュ会議自体がノーベル平和賞を受けています。

 戦後50年、60年、つまり広島・長崎に原爆が投下されて50年、60年の節目の年には世界大会が広島で開催されましたが、70年の節目の今年は11月1日から5日まで「被爆70年:核なき世界、戦争の廃絶、人間性の回復をめざして」をテーマに世界大会が長崎で開催されることになり、この日の記者会見は、長崎大会に携わる日本の3人の学者(写真左から大西仁東北大学名誉教授、小沼通二神奈川歯科大学理事、鈴木達治郎長崎大学核兵器廃絶研究センター教授=組織委員会委員長)が意義やねらいを説明しました。

 キノコ雲の下という言葉は、95年の広島宣言に盛り込まれた言葉です。核の廃絶に背を向けるならば、「キノコ雲の下で夥しい数の人々が消滅する事態が、またしても起こりうる」と記されました。

 世界中の歴史教育で使われる教科書には、原爆を説明する資料として、上空から、つまり投下した側から撮影されたキノコ雲の写真が使われているといいます。確かに被爆国の日本でも、原爆の写真を一枚だけあげるとしたらキノコ雲になるのかもしれません。しかし、そのキノコ雲の下でどんな現実があったのか、投下された側の視点でそれを語り継ぎ、そこに思いを致すことが核兵器の問題を考える上でとても大切、今回、被爆地長崎で開催される意義の一つもそこにあるというのです。

 重い言葉でした。報道番組でも、よくキノコ雲の映像を使いますが、核兵器の象徴として安易に使っていないのか、大いに考えさせられました。

 さらに、最近の傾向として、映画やゲームなどで終末戦争などをうたった一見リアルなCG映像が氾濫しているが、核兵器がもし今使われるとどんなことが起こるのかを、こうした映像があふれる中で、どうやって描いていくのかが、重い課題だという趣旨の発言もありました。

 象徴的な映像が現実のすべてを表すわけではありません。まして、いくらリアルであっても作り物の映像には限界があります。自らの表現の幅を狭めるということでは、決してありませんが、技術の進歩で様々な映像を作成できるようになった今だからこそ、私たち報道に携わる者は、厳粛な気持ちで、現実に強くこだわり続けないといけないと感じました。